現実の身体に芽生えた感情の力 現実の身体に芽生えた感情の力

偲ぶことを考える

現実の身体に芽生えた感情の力

Essay
2022.12.2 Illustration:Makoto Motomura

古来より人は、死者を弔い偲んできた。それは国境問わず、それぞれの風土や民度をベースとし、様々な手法で定着し受け継がれている。なぜ人は、偲ぶのだろうか。なぜ人は、死者を想うのだろうか。今連載では、そんな人類独自の根源的な営みを、様々な実例や解釈を元に紐解いていきたい。

生と死を考える。

考えると書くと、
机でうんうんと唸りながら、
論理的な思考のみで
推し進めていくということを
想像してしまいがちだが、
おそらくそれは限りがあって、
実は人が現実に
この身体ごと晒しながら
芽生えた感情の力が、
考えることなのだと思う。

小説家・保坂和志の
「生きる歓び」(1999年)、
「ハレルヤ」(2018年)
という小説を読むたびに、
こういった思いを巡らしてしまう。

現実の身体に芽生えた感情の力 現実の身体に芽生えた感情の力

「生きる歓び」では、
生まれつき目が不自由で、
ウィルス性の鼻風邪をこじらせ
衰弱している子猫の
”花ちゃん” を拾い、
懸命に看病する夫婦の姿が描かれ、
「ハレルヤ」では、
リンパ腫を患った ”花ちゃん” の
治療に奔走する夫婦の姿が描かれる。

二つの小説では
猫や登場するものたちが
病に翻弄される姿が
描かれているのだけれど、
それらが闘病記として
感動的なのではなく、
「言葉を持たないもの」である
”花ちゃん” と、
「心の奥の声を探り続ける」
夫婦との交わりや触れ合い、
祈りに似た日々の魂の交換に、
読んでいるわたしは
どうしても激しく心を
揺さぶられてしまう。

現実の身体に芽生えた感情の力 現実の身体に芽生えた感情の力

主人公である ”私” は
4年と4ヶ月の
短い命で死んでしまった飼い猫
“チャーちゃん” のことを
思い出す場面がある。

(…)短い命を生きることだけが
チャーちゃんのしたことで
短い命の子は言葉を残さず、
最後の呼吸で
月を見上げて鳴いたら
それっきり飛び散って、
光や風や波になる、
姿も形も動作も残さず
光や風や波になった、
祈りと同じだ。
チャーちゃんは
何も言葉を残さなかったから
私は人間としての宿命で
心の奥の声を
探り続けることになった、
それは祈りだから
そこに言葉はなかった、
光と風と波だけがあった。

保坂和志「ハレルヤ」
(新潮社 2018年)

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たとえば
「言葉を持たない」ものを死者、
死者の
「心の奥の声を探り続ける」ものを
生者
として考えてみてはどうだろうか。

フランスの哲学者・アラン
(1868~1951)は
死者に関するエッセイの中で、
死者は
肉体から開放されることによって、
死者の存在は
純粋な精神となり、
うるわしい面影になる。
生者は死者のうるわしい面影だけに
再会できる、と指摘する。

二つの小説は「生」と「死」の
手触りというか感触のようなものが、
一対になって響き合い
呼応しているように見える。
わたしはこの感触を
感じたいがために、
またこの二つの小説を
繰り返し読んでしまう。