一日の花を摘め 一日の花を摘め

偲ぶことを考える

一日の花を摘め

Essay
2023.1.13 Illustration:Makoto Motomura

古来より人は、死者を弔い偲んできた。それは国境問わず、それぞれの風土や民度をベースとし、様々な手法で定着し受け継がれている。なぜ人は、偲ぶのだろうか。なぜ人は、死者を想うのだろうか。今連載では、そんな人類独自の根源的な営みを、様々な実例や解釈を元に紐解いていきたい。

友人が亡くなった。

亡くなった友人の家族から、
手紙と生前の写真を
何枚かいただいた。
わたしは脱力し、
泣き崩れ狼狽するばかりだった。

「機会があれば来世で」と、
彼女らしいことばが
手紙に添えてあった。
友人がわたしに残してくれた
最期のことばだった。
わたしに寄り添い、

直ちに救済するような信仰も哲学も
そこにはなかった。

このような暗がりで迷ったとき、
一把の松明のような
ことばに出会った。

一日の花を摘め 一日の花を摘め

死者

死体の謂ではない
生存ではない
生存形式において存在する者
つまり異界の者
の思い為すこと、それが物語である

死者の思い為しを生者は生きている
死者に思われて生者は生きている
したがって、
生存とはそのような物語なのである

池田晶子 「リマーク1997ー2007」
(トランスビュー 2007年)

一日の花を摘め 一日の花を摘め

彼女は有能なイラストレーターで、
彼女が亡くなったころ、
わたしもイラストレーターとしての歩みをはじめていた。
もちろんそれは偶然のもので、
申し合わせたわけではないけれど、
彼女からゆるやかにバトンを
受け取ったような思いがあった。

故人の分まで生きて幸せになります、
と潔いことばのように
喩える人がいる。
そこまで図々しくはなれないけれど、

彼女が見ることができなかった風景を
見てみたい
という気持ちが芽生えた。

一日の花を摘め 一日の花を摘め

死者の思い為しを生者は生きている
死者に思われて生者は生きている

わたしは時折この一節を呟くように、
声に出す。
それは死者に手向ける
花のようでもあり、
生存ではない生存形式において
存在する者との、
生死の境を越えた働きかけ
=祈りだと考えている。