この世界と地続きの、寄る辺ない存在のわたし この世界と地続きの、寄る辺ない存在のわたし

偲ぶことを考える

この世界と地続きの、寄る辺ない存在のわたし

Essay
2022.10.21 Illustration:Makoto Motomura

古来より人は、死者を弔い偲んできた。それは国境問わず、それぞれの風土や民度をベースとし、様々な手法で定着し受け継がれている。なぜ人は、偲ぶのだろうか。なぜ人は、死者を想うのだろうか。今連載では、そんな人類独自の根源的な営みを、様々な実例や解釈を元に紐解いていきたい。

奄美大島に行った。
無数の集落には厄除けや
豊穣を祈り
祭儀を司る祭司の「ノロ」や、
シャーマンの「ユタ」など、
古来の民間信仰が残っている。
その集落をひと目見たかった。

四方を海に囲まれた、
ほとんど断崖のような山道を
延々と車で走り続けた。
一月だというのに、
南国特有の紅いデイゴの花が咲き、
ソテツが繁茂していた。
黒みを増した紺碧の海が、
沖合から吹きつける
風に煽られて荒波となり、
山々に当たり砕け散る。

険しい道々を分け入っても、
そんな光景が延々と連なっていく。
眼前に広がるスケールに
気持ちがざわついてくる。

この世界と地続きの、寄る辺ない存在のわたし この世界と地続きの、寄る辺ない存在のわたし

でも、しばらくすると
眺めているわたしが
その光景の
一部となっていく感覚もあって、
ざわついた気持ちも
不思議と穏やかになってくる。

人は大自然の前では
ちっぽけな存在なのだ、
と言いたいのではなく、
この光景の
前ではわたしは何者でもなく、
ただ目の前のことを
享受しようとしている
わたししかいない。


この気持ちは、
わたしがこの世界と地続きにある、
という分かち難く結びついた
実感から来るのだろう。
唯一わたしという存在、
ただひとりで醸成されるこの実感は
尊いと思う。

地続きな存在としてのわたしがいる、
という実感は時空を飛び越え、
豊かさとなって
日常を
照らしてくれるのではないだろうか。

また「ノロ」や「ユタ」は、
亡者の現身(うつせみ)が
古代人の死生観の化身となって、
この自然とともに
現存しているように思えてくる。

この世界と地続きの、寄る辺ない存在のわたし この世界と地続きの、寄る辺ない存在のわたし

哲学者・池田晶子
(1960~2007)は、
この豊かさについて、
それを日常の実践として
「考える」ことを交え述べている。

世に当たり前のことより
不思議なことはない。

自分であるとか、
物が在るとか、
この宇宙に
この自分が生き死ぬこととか、
じっさいこれは、
考えるほどに
とんでもない不思議なのである。


我々、この世の誰ひとりとして、
これがどういうことなのか
知らずに生きているのである。

このことに気づいた人ならば、
生きているとはどういうことなのか、
知ろうとして
必ず考え始めるはずなのだから、
生きられるのかどうかが
どうして問題になり得るだろう。


いや、この不思議を知るからこそ、
日常のいちいち、人生の日々が、
奇跡的なものとして
輝きを放つことができるのだ。

池田晶子
「生きているとはどういうことか」
(三田評論 2002年)

この世界と地続きの、寄る辺ない存在のわたし この世界と地続きの、寄る辺ない存在のわたし

これまで「もの」や
「機会」に思いをのせて、
祈りを捧げてきたわたしがいた。
なにか敬虔に
手を合わせることだけが、
祈りではないだろう。
いうまでもなく、
祈りは身振りではないからだ。

わたしはこの世界と
地続きの寄る辺ない存在として、
ただ目の前のことを享受する。
そこで醸成される実感は尊く、
その経験はわたしの襞となり、
日常に淡い穏やかさと
豊かさをもたらしてくれるのだろう。