偲ぶことを考える
日々、手を合わせるということ
Essay
2022.7.29 Illustration:Makoto Motomura
古来より人は、死者を弔い偲んできた。それは国境問わず、それぞれの風土や民度をベースとし、様々な手法で定着し受け継がれている。なぜ人は、偲ぶのだろうか。なぜ人は、死者を想うのだろうか。今連載では、そんな人類独自の根源的な営みを、様々な実例や解釈を元に紐解いていきたい。
朝、身支度を整えて
床の間の仏壇に手を合わせる。
おごそかで儀式めいたものでは
ないにせよ、
仏さまに手を合わせる行いは、
やはり今もわたしたちの日常の
流れの中にある。
お線香をあげ故人や先祖を想い、
また神社に行けば願をかけ
手を合わせる。
そんな日々の祈りの習慣は、
誰に教わるでもなく、わたしたちの
暮らしに根づいている。
かつて、
イタリア地方都市・ボローニャに、
ジョルジョ・モランディ
(1890~1964)という
一人の画家がいた。
画家は一生涯
この地方都市に暮らし、
質素なアトリエで、埃の被った
ビンや壺など同じモチーフを
『ナトゥーラモルタ』
(イタリア語で静物画という
意味を持つ)と題し、
繰り返し描いた。
モランディが描く『静物画』は、
目を見張るような
リアリズムの追求もなければ、
誰もが驚くような仕掛けが
あるわけでもない。
作品ごとにビンや
壺の位置をずらすなど、
細かな小さい差異にこだわり、
色彩を慎重に抑制させながら、
小さなキャンバスに
つつましげに収め、
一見ほぼ同じような印象の作品を、
丹念に、何枚も形作っていく。
しかし、モランディが描いた
静物画をみていると、
不思議と穏やかな気持ちになる。
同じモチーフを繰り返し描く
ということ、それによって
生まれる作品たちになぜこんなにも
惹きつけられるのか、
ふとこの画家に想いを
巡らせてみる。
ビンや壺など同じモチーフを、
日夜繰り返し描く。
もはやそれ自体が自分自身に定めた
人生のルールであるかのように、
律儀に守っていく。
彼は一見徒労にもみえるそれらを
一生涯続け、
ほとんど同じモチーフを、
1000枚以上描き残した。
私生活でもそのルールを乱すような
アクシデントは避け、
作品と地続きのように、
変化の少ない
日常を求めていたという。
おそらく彼は、
そのような反復によってしか
切り拓けられない境地があることを
知っていたのだろう。
日常的にほとんど無意識のまま、
身体が動き出すとき、
わたしたちははじめて些細な差異に
意識を向けることができる。
これまで気に留めなかった
些細な変化に敏感になり、
その差異は日常の中でしだいに
個性を帯びてくる。
そんなことを思うとき、
仏壇を前に日々手を合わせるという
わたしたちの習慣の
ひとつでさえも、
そんなモランディの日常と
交わることに気づく。
反復される行いがあり、
その流れに収まらない差異がある。
わたしたちはそこに
揺わずかならぎや異彩を
感じ取ることができる。
揺らぎや異彩は、
昨日と今日の心の振れ幅であり、
他者とわたしとの
「同じでない何か」
という世界の認識のズレであり、
目には見えない
境界のようでもある。
そのような差異を
日常の中で感じ取り、
それを包み込むようなまなざしで
見ることができたとき、
わたしたちは自分自身や
他者を許し合い、
請いながらも心の平穏を
手に入れることができるのだろう。
わたしたちは、たゆみのない
ほぼ同じような日々を生きている。
そのような日常に
ただ身を任せていると、
私という個別性や
日常での微細なうつろいを
つい見過ごしてしまうことになる。
モランディの絵を眺めていると、
実はモランディが
それらを実感するために、
リアルな手段として
同じようなモチーフを日々繰り返し
描いたのではないだろうか、
と気づかされる。
日々手を合わせ祈るということも、
それらを実感するための、
わたしたちの尊いしなやかな
実践なのではないだろうか。