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偲ぶことを考える
石櫃に平穏をみる
Essay
2022.6.17 Illustration:Makoto Motomura
古来より人は、死者を弔い偲んできた。それは国境問わず、それぞれの風土や民度をベースとし、様々な手法で定着し受け継がれている。なぜ人は、偲ぶのだろうか。なぜ人は、死者を想うのだろうか。今連載では、そんな人類独自の根源的な営みを、様々な実例や解釈を元に紐解いていきたい。
京都の日本庭園で奈良時代の
石櫃(いしびつ)をみる
機会があった。
石櫃とは火葬された遺骨を収めた
骨壷をさらに収める容器で、
墓石の原基のようなものといえば
想像できるだろうか。
その印象は、決して遺産めいた
厳しいものではなく、
姿形がこんもりとしていて、
とても愛らしい印象だった。
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石櫃は庭園の植物と
よく馴染んでいて、
しばらく眺めていると
穏やかな気持ちになる。
それまで気に掛けなかった
風の音や、鳥の鳴き声まで
聞こえてくるようになる。
不思議と身体が徐々に
感覚を開きながら、
どんな微細なものでも
すべてを感受しようと
しているように思えてくる。
すると、見ている光景と
湧き上がった気持ちの、
いわく言い難いこの交わりを、
端的に表したことばを思い出した。
江戸時代の国学者・本居宣長(1730~1801)が説いた
「もののあはれ」である。
「もののあはれ」とは、喜怒哀楽の
あらゆる感情「あはれ」が、
万物「もの」に触れ交わることで、
固有の美意識を獲得していくこと、
であった。
この「もののあはれ」が
おもしろいのは、
感情を指す「あはれ」も、
万物を指す「もの」も、
はっきりとした輪郭を限定せず、
先の石櫃の光景のように
あらゆるものの境界を曖昧にし、
しかし一体となることを
あらわにすることばとして
用いられているところである。
言い換えれば、この世界と
知覚するわたしの認識論であり、
日本人がはじめて構築した
「情動の哲学」であった、
ともいえるだろう。
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実は人類学的にみても
墓石や墓標は、
碑(いしぶみ)であっても
実用性はないらしい。
たとえば北米民族のトーテムや、
南アフリカの少数民族に残る
原住民の背丈より
はるかに大きい墓標などは
「死者への鎮魂を天空高く届ける」
という意味があるのだと聞いた。
日本でも沖縄では、
亀甲墓(カミヌクーバカ)という
古来のお墓が残っていて、
一説には「回帰」を意味する
女性の子宮を象(かたど)っている
ともいわれている。
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人生には避けられない数々の
苦悩があり、中でも死別は
身を切られるほど哀しい。
宣長が「もののあはれ」の
原理の中に、
美しさと悲哀を共生させたのは、
平穏や慰めなどの内なる
救済や浄化までを包括しそこに
見ていたからではなかったか。
石櫃の中には眠る者がいて、
時を経てもその光景に平穏をみた
わたしがいる、というように。